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ペンギンノート

福島在住ライターのブログです。 福島から見た政策・経済などについて、リアルな感覚から書いています。

福島、放射線、廃炉を知るためのブックリスト

2011年3月以降に出版された震災関連書籍は1万冊を超えると言われています。 

東京電力福島第一原発の事故に関連したものと限っても数千は下らないでしょう。

福島県内の書店や図書館には、5年半が経った今でも「震災・原発事故関連コーナー」が設けられており、たくさんの大小さまざまな本がずらりと並んでいます。

しかし、その中には、(インターネット上の雑多な情報ほどではないにせよ)ちょっと首を傾げてしまうような本が多いことも確かです。

特に、フィクションのジャンルでその傾向があるなあ、と感じることが多いのは悲しい。私は、震災前まではむしろフィクションを好んで読んできました。物語の力を信じてきましたし、今でも物語には絶大な力があることを感じています。でも、だからこそ、その強い力を濫用すれば、どれだけ甚大で深刻な被害を及ぼすのか、ということも感じています。

何かが起こったとき、まずそのことを私たちに知らせてくれるのは「ジャーナリズム」と言われるジャンルのペンです。そして少し時間が経ったとき、何が起こったのか、誰が関わったのか、世界への影響は、といったことを相対化しながら事実に基づいて考察し、そして私たちはどのように生活をすればいいのか、といったことのヒントになるのが、「ノンフィクション」や「論文」のような種類のペンです。

福島に関して言えば、「ノンフィクション」や「論文」まで、ペンは健闘しているように思います。なので、まずは「ノンフィクション」のジャンルでとても素晴らしかった本を挙げました。

本当はこのあとに、「フィクション」があります。物語は、私たちひとりひとりがそれぞれの心に深くもぐり、そこで再び出会って語り合うためのドアであり、心を深く掘り進むためのスコップです。

心はとても無防備な場所です。人間の一番やわらかく大切なところを、故意に傷つけることは許されることではありません。

そこにじかに触れることができる「フィクション」を故意に濫用するような悪意がこれ以上世界に溢れないことを祈ります。

 

 

知ろうとすること。 (新潮文庫)

知ろうとすること。 (新潮文庫)

 

1冊目には、東大の物理学者早野龍五先生と、ほぼ日刊イトイ新聞糸井重里さんとが共著された、「知ろうとすること。」を挙げました。

事故の後、不安と恐怖で日本中がパニックに陥っていた時期がありました。

そのとき、毎日膨大な「事実」を淡々と発信しつづけた物理学者が、早野先生でした。暗闇の中に浮かぶ一筋の光の糸のように、あのころ早野先生のつぶやく数値を追い続けていたことを思い出します。

早野先生はその後、子供の内部被ばくを測定する装置を開発されるなど、主観的な意見を述べることをせず、ひたすら正確な数値をはかり続けました。今でも、県内の高校に頻繁に通い、子供への放射線教育に尽力されています。

糸井さんが東北、福島にずっと関わり続けていることはもう言わずもがなでしょうか。

本屋さんで、カバーがかかっているのにも関わらず、なんとなく積んである山の一番上を避けて本を選んだことが恥ずかしながら私もあって、この比喩は心に残りました。

放射線に限らず、「科学への姿勢」を深く考えることのできる一冊です。

 

科学的とはどういうことか、を考えたあとに、では放射線に関して科学的になるってどういうことなのか、を知る第一歩はこの本が役に立ちました。

ツイッター上では、さばけていながらなかなかにキツい言葉の多い「きくまこ」先生ですが、この本の中での先生はまるで別人です。とても丁寧で2つの意味でやさしい解説をされています。知ろうとしている人には知ってることを解るように教えるよ、という空気も感じられます。

 

放射線と冷静に向き合いたいみなさんへ

放射線と冷静に向き合いたいみなさんへ

 

(原著です)  

Radiation: What It Is, What You Need to Know

Radiation: What It Is, What You Need to Know

 

放射線についてもう少し深く学びたいと思って探していたとき、巡り合った本です。

骨髄移植と白血病の専門医ロバート・ピーター・ゲイル博士は、チェルノブイリ事故、東海村事故、そして福島第一原発の事故など、放射線事故があるたびに救護活動をされてきた放射線と健康に関わる世界的権威です。

医師は、科学的に正しく放射線を怖がりましょう、ということを主張しています。南米のゴイアニアで起こった「医療機器から取り外された放射性セシウムの光る塊をおまじないとして食べてしまった」という衝撃的な事故(しかし、にもかかわらず、この事故での死者は4名だったとのこと)から始まり、日常生活に利用されるトリチウムなどのありふれた放射性物質などの紹介もしながら、過剰に恐れることの健康上のリスクについてまで言及しています。

少し厚みはありますが、とても平易な表現で書かれていて、福島の現状にもつながる本だと感じています。

 

 

はじめての福島学

はじめての福島学

 

 福島第一原発が爆発した映像を記憶しているので、放射能のこともだけれど、「そもそもあれだけの事故があった福島、大丈夫なの?」あるいは、「福島ってもう人が住めないんじゃないの?」「農業国だったんでしょう?産業だいじょうぶなの?」などの疑問は当然(なんとなくレベルで)持っていました。「福島に引っ越したよ」というと、「えっ大丈夫なの?」などの特殊な反応をもらうことはいまだにあります。

その辺実際どうなのか、ということを、まずは数字で整理しておきましょう、という本です。

何にしても、まずは統計などのデータで全体像を把握して、そこから読み取れる課題についてひとつずつ具体的に取材して検証していきましょう、というスタイルは基本的な姿勢のはずなのに、こと福島に関してはそれをすっかり忘れていたなあと反省しました。

ここから開沼先生は「福島学」を提唱されはじめたんですよね。

 

そして、今後最もたくさん考えたり話し合ったりする必要が出てくる、廃炉の話です。

 放射線についてはなんとなくつかめたし、福島も実態こんな感じなのね、というのは納得できても、「廃炉」となるとどうしても構えてしまいます。

建物も大きいし、よくわからないけど爆発したりするし、中に危険なものが入ってるようだし、取り扱いも実態もよくわからないので、事故を起こしていてもいなくても、施設そのものに、我々一般人は近寄りがたいです。

それでも、廃炉には費用がかかるし、福島第一原発は事故処理もあるだろうし、早く終わらせてほしいけれどなかなか進んでいないとかも言ってるし、実際どうなの?

という疑問に答えてくれたのは、意外なことに難しくもなんともない「絵」で見せる2冊でした。

 

 

いちえふ コミック 1-3巻セット (モーニング KC)

いちえふ コミック 1-3巻セット (モーニング KC)

 

 まずは有名な「いちえふ」。

フィクションではなく、ノンフィクション、銘打ってあるようにルポ漫画です。実際に廃炉の作業員としての体験が詳細に描かれているので、具体的な作業や日常が手に取るようにわかります。

全く畑も仕事の大きさもレベルも違うんですが、かつて一時プログラマとして商工会議所などの下請け仕事をしていたのを思いだしました。プロジェクトの全体像をマネージメントしたり、様々な責任を引き受けたり、顧客と折衝したり、は元請けがやっていましたが、「でも、ここの仕組みを知ってるのは私だ」という自負がありました。

いろんな立場の人が奮闘されているのだなあと感動と尊敬を覚えます。

 

 

福島第一原発廃炉図鑑

福島第一原発廃炉図鑑

 

 

そして、その名もずばり「福島第一原発廃炉図鑑」。

これだけ読めば、廃炉福島第一原発周辺地域の現状が網羅できる優れた図鑑です。

時代が混乱すると「魔術」とか「呪い」とかが跋扈するのは古来そうなのですが(そしてそれで人が傷つかず何ら困らないならそれでも良いのでしょうが)実態もあるしそこで人が働き、人が暮らしている原発や周辺地域を「魔術だ呪いだ、怖いぞー」で片づけて知らんふりして済ませていると、自分がおなじように困った事態に陥ったときに誰も助けてくれなくなると思うのです。

プレイヤーになること。「ひとごと」じゃなくて、「じぶんごと」と思うこと。

福島に住んでいるから、というだけではなく、同じ日本の社会で起こった事故です。「自分でもなんとかしてみよう」とちょっとでも考えれば、1人でも多くの人が「じぶんごと」として考えれば、ずっと早く廃炉は完了します。

避難生活が続いていることで、そして過剰な放射線不安の情報にさらされたことで、ストレスや生活リズムの狂いをおこし、たくさんの人たちが生活習慣病精神疾患に苦しんでいるという現状があります。亡くなってしまわれる方も増えています。

少しでも早く、少しでもたくさんの人が安心して暮らせる生活に戻れるように。

そのために、まずは「知ろうとすること」。

自分の備忘録代わりのブックリストでした。

暴力のシステム~「聲の形」レビュー~

 

ちはやふる(上下)」「シン・ゴジラ」「君の名は。」「四月は君の嘘」と、最近立て続けに素晴らしい映像作品を劇場で観ることができたので、そろそろハズレてもいいかなと思いながら「聲の形」のチケットを買った。

 

上記の都合5本を絶賛していた配偶者が、劇場に灯りが戻ってきたあとに腕組みをして「これは難しい」とつぶやいた。(私はその横でボロ泣きしていたので決まり悪かったのだけれど)確かに上記5作品とは毛色が違ったかもしれない。

 

一言でいうと、これは「構造的暴力」の話だ。

 

ゴジラのような圧倒的悪の権化がわけもわからず攻めてきたり、

人知を超えた災害や奇跡の力が物語を進めたり、はしない。

ましてや爽やかな青春や温かい友情の話でもない。重ねて言うがこれは暴力の話なのだ。

 

この作品の特徴は3つある。

 

まず1つ目は、登場人物の感情や言動が徹頭徹尾リアルだという点だ。

こういう立場でこういう性格の奴ならこういうこと思ったり言ったりしたりするよな、と逐一納得できる。

例えば聴覚障碍を持つヒロインの家族。ヒロインがいじめに遭ったと知った彼女の母親が(主人公にもヒロインにも父親はいない)、いじめの主犯格だった主人公の母親の耳を切り、血が飛び散る。ヒロインの妹は学校にも行かずに、ただ姉を護るためだけに一所懸命。おばあちゃんはその妹をひそかにいつも心配している。こういう家族の身の寄せ方の描写がリアルだ。

ほかにも、いじめを傍観しつつ「お前も見てただろう」と言われると「私は悪くない、何もしてない、そんなこと言うなんて酷い」とすぐに泣きだしてしまう女の子や、いじめに遭ってもひたすらニコニコしながら「ありがとう」「ごめんなさい」を繰り返すヒロインや、見ていて痛みを覚えるほど、「こういう人たち、見たことある(あるいは自分がそう)」と思える人物描写が続く。

 

そして2つ目が、奇跡がない、という点。

いじめがあって、いじめが連鎖して、関わった人がそれぞれ(人物によっては致死的に)傷つく。でも奇跡は起こらない。

伏線はすべてきれいに回収されるものの、すっきり大団円にはならない。いいことも嫌なことも含みながら今日も明日も日常は続く。

自らもいじめに遭い、かつてのいじめ加害の罪悪感から極度の対人恐怖に陥り、自殺も計画し、登校しても人の顔が見られず、人の声がすべて(自分の声の吹き替えという表現で)自分を否定しているように聞こえる主人公が、ラストシーンで他人の声が他人の声として聞こえるようになる。でも、たくさんの他愛ない雑談に交じって、「あいつよく学校来られるよな」というようなきつい言葉が1つ混じっている。大切なのは、それをも怯えず聞く主人公の表情なのかもしれない。

いいことも辛いこともある。辛いことはあるけれどいいことがある。それがリアルだ。

 

私の配偶者が好むのは野島伸司のドラマで、つまり「人物のリアルさ」より「物語の構造が訴えるメッセージ」だ。「君の名は。」はこっちだったと思う。

「聲の形」は上記2点のように、「細部のリアルさ」を肝にしている。

 

そして3つ目の特徴として、ここには善人も悪人もおらず、あるのは構造的暴力である、という点があげられるだろう。

主人公が行ったいじめは「悪」だ。主人公に加えられたいじめも「悪」だ。

でも、主人公は単純な「悪の権化」という描き方をされていない。主人公をいじめた少年も、黒幕の彼をやっつければ大団円、とは描かれていない。

人によっては「そんなの生ぬるい、加害者を断罪せよ」と感じるかもしれない。

でも実際のいじめ現場においては、ゴジラさながらの「悪の権化」が中心にいて、そいつは頭から足の先まで悪で、という状況はわかりやすいながら特殊ケースであるように思う。

以前埼玉のチャイルドラインの代表を取材した際にも、そのことは強調されていた。「悪い子ども」個人を断罪して排除すればいじめはなくなる、ということではないのだ、と。

作中では、担任の教員が黒板を激しく叩いて主人公を怒鳴りつけていた。あれで解決しないだろうことは素人目にみても感じる。

そこにあるのは、構造的暴力。個の悪ではなく、システムの欠陥だ。

代表はまた「いじめてしまう子どもは、相手との距離のとり方がわからないんです」とも言われた。

つまり、子ども同士が相手と距離をとりやすい環境を作ることが解決につながるかもしれない。

さまざまな事情や感性を持つ子どもたちを一つの教室に押し込めたら、大人の論理で言えば効率的で便利なのかもしれない。でも、多分それを子どもに強要しているうちは構造的暴力はなくならないように思う。

 

それと、孤立は決定的によくない。

いびつでも不完全でも、友人たちに囲まれて変わっていく主人公たちの涙を見て、改めてそれを思った。

 

 

ふくしま”みち”さがし

「福島を知るためのツアー」を企画する「作戦会議」、くるまざカフェ―ふくしま”みち”さがしーに参加してきた。

 

開沼博さんのオープニングトーク。

震災からの建物などのの復興はできてきたし、除染もだいぶ進んだ5年目、何が問題なのか・何が足りないのか、が見えにくくなってきている、ということ。「みち」とは「未知」なのだ、と。

目的地について遊んでおしまい、ではなくて、目的地への道程そのものを見て、地域そのものを知って、道、「物語」を楽しむ形の観光を考える、ということ。「みち」とは「道」でもあるのだ、ということ。
専門家や国にゆだねず、地域で実際に暮らしている我々ができることを探す、ということ。

 

「物語」。
それがキーワードだな、ということを、今日は随所で感じた。

 

ワークショップでは、「森林・里山のいま」、「食の安全」、「放射線への不安を考える」、の3グループに分かれてそれぞれツアープランをディスカッション。
私は「放射線への不安を考える」グループに参加していろいろ言ったり聞いたり考えたりしたけれど、他のグループの発表を聞いても思ったのは、やっぱり「物語性」がすごく大事なんだな、ということ。

私たちが安心するのは、結果の数値じゃなくて、(それももちろん大事だけど)、たとえば放射線対策に苦労している現場の人と一緒に放射線対策をしてみるとか、除染の現場で地面を一緒に掘り返してみるとかのプロセスを、

つまりは「安全」のための道を、「物語」を、自分の肌で感じることなんだと思う。

それはたとえば今回のように、「福島を知るための(福島を伝えるための)ツアー」を皆で考えた、というプロセス、物語だって良いのだと思う。

体験の大切さって、そういう「ほんとうの安心」、それは数値への安心ももちろんだけど(というかそれは前提で)、人を信じることにあったりするんだ。と、思う。

高校生がグループに数名いて、頼もしく、うれしかった。

子供にとって、「不安」には思っていても、「自分がなんとかできる」って思っていなかったら関心はわかないと思うのだ。

「自分もなんとかできる」って思わせる、そういう希望を持たせる教育ってなんだろう、と、一応教育従事者でもあるので、そんなことを思う。

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石棺騒動


東電福島第一原発廃炉方法を検討する「原子力損害賠償・廃炉等支援機構」が今月13日に公表した「技術戦略プラン」の中に、「石棺」の文言があり、しかも「状況に応じて柔軟に見直しを図る」と記述された、ということで、県知事をはじめ地元の猛反発を招いたという今回の石棺騒動である。
石棺方式というのは、燃料デブリを取りださずに原子炉ごとコンクリートで覆ってしまう方式のことで、これをやると今原子炉がある場所がそのまま最終処分場になってしまう。
結局20日に「石棺方式」という文言を削除した修正版の戦略プランを公表して、機構が謝罪する、という状況になっている。

廃炉に関心を持って状況を追っていると、「えっ今更石棺?」というかなり唐突な感じを受けるので、何かこの騒動には事情があるのだろう、と某報道関係者に探りを入れてみた。
なんともやるせない騒動であったようだ。

まず、機構の理事長は、元京大原子炉実験所教授山名元氏である。
彼自身は、「何がなんでも絶対燃料デブリは取り出す」という強固な信念を持った人である。これはブレない。
しかし、ちょっと違う考え方を持つ人がいる。
原子力規制委員会の更田豊志委員。この人はときどき「石棺」ということを言う。
平たく言えば、理事長山名氏は、この「石棺」という可能性を完全に潰したいと考えた。
絶対取り出す。
だが、真正面から「絶対ない」とやると、強硬派の更田氏がものすごく反発するだろう、というのが予想された。もめれば多方面で遅滞するし、そんなことで遅れている場合じゃないので、それは避けたい。

だからちょっと丁寧にしようとした。

いったん今回のプランで「石棺の可能性を言う人もいますが実現性は乏しい」と一言書いておいて、1年後に「石棺の可能性は全くないことがわかりました」と完全に潰す、という作戦だ。
約300ページに及ぶ分厚いプランの中の、たったの10行足らずである。
しかも、石棺は「問題がある」という文脈で使われていた。

何故これがこんなに大きな騒ぎになってしまったか。

NHK(福島ではなく東京の)が、文脈は関係なく「あっ、石棺て言葉が書いてある!」というだけで、13日夕方のニュースで「石棺だって!」と報道したのだ。

すると福島の地方二紙はもちろん翌朝には大きく報じる。
原発周辺の市町村長はもちろん怒る。
知事はすぐに経産省に飛んでいき、猛抗議する。
経産省はもちろん機構に修正を求める。
機構は即刻修正と謝罪の会見を開く。
こんな大きな動きになったら、他紙やテレビ局だって放置はできない。
大騒ぎになってしまった。

・・という細かい内部事情を知ると
石棺という発想そのものを完全にゼロまで潰そうとしていた当の理事長が「石棺を考えているのか!」と責められて謝罪しまくっている姿がどうにも釈然としない。

報道関係者のしんどさを痛いほどわかっている。だからひとくくりにはできないと思うし、そもそもあんまり言いたくないのだが、
1回2回ではなくこの手のNHK発の騒動は起こっているので

NHK、ちょっと考えて報道したらいかがか。

御嶽真田神社

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海の日に山に行った。
福島に引っ越してからはじめての夏を心待ちにしていた。
桃が大好物である。
桃農家の直売所に「桃食べ放題」の文字を見て、喜んで参戦。
今の時期は白鳳とたまきという品種で、白鳳はあっさりして水気が多く、柔らかい。たまきははっとするほど鮮やかに甘くて、少しサクッとした感触。おじさんが「豆腐で例えると白鳳は絹ごし、たまきは木綿だね」と仰っていて、本当にその通り。桃狩りは品種を変えて10月くらいまで楽しめるそうだ。

桃でお腹を満たして歩く帰り道、配偶者がふと立ち止まって小さな神社を指さした。
「あれ、六文銭じゃない?」
見ると、確かに六文銭が頂かれている。しかし大河「真田丸」で有名になった通り、六文銭自体は「三途の川を渡るための運賃」(冥銭)のことなので、イコール真田家と決まったわけではない。
おそるおそる鳥居に回ってみると、はっきりと「御嶽真田神社」と刻まれている。
にわかに興味が湧いたので、ちょうど神社の裏手を掃除していた若いご夫婦に声をかけてみた。
「真田ってあの信州の真田ですか?」
すると、真田幸村(信繁)の娘の系譜なのだ、と教えてくれた。
日本では、女性の系譜というのは辿るのが難しい。(「女」とだけ書かれている場合が多い)
ただ、幸村(信繁)の娘あぐりは、白石城主片倉小十郎(重長)の後室であるし、案外東北にゆかりがあるのかもしれない。
私が声をかけたのは現神主さんだったようで、気さくに「あがっていって」と誘ってくださり、お茶までいただきながら御嶽教の話を1時間くらいうかがった。

「おがみや」だったおばあさまのお話や御嶽教に限らず神道全般のお話もさることながら、きれいに整備された境内、磨き込まれた鳥居や社など、とても居心地よく静かな雰囲気だった。
近所では地蔵様と言われているようで、神仏が一体になってかつ土着の信仰や習慣に馴染んだ昔ながらの神社なんだなぁと心が和んだ。

寺社の廃業が全国あちこちで進んでいると聞く。
「その年代で珍しいね」と言われることは多いが、私は保育園が寺だった。園長は真言宗の僧侶だったし、園児は全員数珠を持っていたし、涅槃会とか花まつりのときには本堂に集って仏教説話を聞いたし、毎週火曜日は給食の前に園長から仏教説話を聞かされたし、毎日の給食の前には回らない舌で読経したものだ。
残念ながら仏教徒になることはその後なかったけれど、幼少期になにがしかの信仰に習慣として触れていたことは、その後ムスリムやクリスチャンと深く交流するときの助けになったし、そもそも日常的にきちんとした思考をする上で欠かせない経験になったと思う。
宗教は文明人に欠かせない教養だし、それを素直に吸い込む環境のためにも、近所に「生きている」(神主さんや住職さんや牧師さんなどと気軽に交流できる)宗教施設はもっと見直されていいんじゃないかな、と思った次第である。

しかし何事につけ総括はときとして暴力につながるので、「県民性」みたいな話は普段好きじゃないのだけれど、福島の人は人懐こいとよく感じる。
「また寄ってくださいね」とご夫婦とお母さん(?)が外まで見送ってくださる笑顔を見ながら、つくづくいいところだなぁと思う。

はかりまくる。

今夏の参院選で、「測りまくる日本」と演説する候補者がいた。
放射線測定をもっとやりましょうということのようだ。
逆に言えば、彼の認識では「現状の放射線測定は足りていない」のだろう。
実際の言い方では「被ばくの測定」といっているのだけれど、
人体への放射線による影響の度合い(単位:シーベルト)だけを測るのではなく、食べ物や土壌の中の放射能の強さ(単位:ベクレル)も測ると言っているので
ひっくるめて「放射線測定」をもっとやるべきだ、ということのようだ。
もっと測る。逆に言えば「あまり測っていない」と認識しているようだ。

さて、本当に「あまり測っていない」のだろうか。

例えば米。
福島県では、2012年度から年間約1000万袋が全量全袋検査されている。

福島県外の人への認知度は5割程度と低いが、
2016年4月13日毎日新聞東京版朝刊に鼎談が載っていた)
これ以上測れない(100%測っているので)。

例えば大気。
福島県内で言えば、2016年4月1日現在で3730箇所でリアルタイム測定をしている。(福島県ホームページより
かつ、福島県外でのモニタリング状況が福島県放射線測定マップから見られるが、かなりの高密度で測定システムが設置されていることがわかる。

ということで、現状、既に「測りまくっている」日本、なのである。

そしてこのように「測りまくった」結果、現在の状況はどうなっているのか。

まず米で法定基準値超え(1㎏あたり100ベクレル)をしたのはどのくらいかといえば、
1年間で約1000万袋を測ったうち、2012年度生産分で71袋、2013年度生産分で28袋。2014年度生産分で0袋になった。
空間線量では、上記福島県ホームページに事故後の線量推移グラフが出ているが、すべての方面が事故前の値である、とは言えないまでも、ずっと減少している。少なくとも上昇はしていない。自然減衰と気象や除染の効果だろう。

つまり、「測りまくってみたら下がっている線量」を、今からまたもっと「測りまくる」のだ、と主張しているわけだ。
米の全量全袋検査にかかっている費用は、年間50億円前後と言われる。

都内でこういった主張をしてしまう候補がいること自体は、残念には思うが、仕方ないのだろうなと思う。
知らないばかりか、知ろうともしていないことも、仕方ないのだろうなと思う。
知ろうとしない上に、「福島県は全土汚染されて住んでいる人は可哀想だ」だとか「子供も遊べないような土地」だとか、酷いものになると「あえて隠蔽している」(例えば米を1袋1袋全部測っている人やその家族をなんだと思っているのだろう)というような無責任で想像力のかけらもない言説を垂れ流すことも、仕方ないのかもしれない。そういう人はいる。

ただ、こういった候補をきちんと見分けてパージしていくために、私たちはひとりひとりがきちんと知ること、あるいはせめて知ろうとすることが重要だと感じる。
数は少なかったにせよ、普段から社会について高い関心を持ち、様々な人との交流もあるだろう人たちまでもが、今回こういった候補を推している状況がちらほら見受けられた。候補の存在そのものより、その周囲の感情に任せた流され方を見て、問題だと感じた。

こういうイロモノ候補をきっかけに、もし若者が選挙や政治に関心を持つようになったなら、それは悪くないことなのだろう。(いい歳の大人までもが熱狂している様子はどうかと思うが)
これを契機に是非政治や日本の政策を含む政治の現状について、興味関心を深めていってくれればと願う。